ろくべん館だより

『白沢神社の神楽面』

ある日、ろくべん館にこんなお客様がみえた。
「白沢神社の神楽の面(おもて)が、ここにあるはずなんですが、それを見せてください。」
その方は四十歳前後と思われる男の方で、話を聞いてみると、ご自分で面を彫っている方だそうだ。初めは能面を彫っていたのだが、どうも少し違うなと感じていたところに、神楽の面と出会ったという話をされた。
御持参されていたのは、平成八年に飯田市美術博物館で開催された、『神々の訪れ』と題された特別展の図録である。その中に大鹿村に保存されている面が二十二点出展されていた。図録の中でも白沢神社の祭神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の二面は表情豊かで、おおらかな神のようである。
さて、この日はお客様の「見せてください」のご要望には応えられず、「捜しておきます」ということでお引取り願った。

白沢神社は桶谷集落にあった神社だが、桶谷集落はご存知のように小渋ダムの建設を前に、昭和三十九年八月八日の部落の解散式を最後に全戸離村した。離村に先立って、白沢神社では五月十三日に最後の祭りが行われ、盛んだった歌舞伎の上演もこれを最後と深夜に及ぶまで続けられたという。建物はその後取り壊され、祭神は鹿塩の市場神社に合祀された。その祭神をかたどったものとされるのが、伊邪那岐命と伊邪那美命の面である。
この面は、かつて湯立神楽に使われたという話もある。

湯立てといえば、今でも上村や南信濃村では遠山霜月祭が行われているが、大鹿村でもその昔はさかんに湯立てが行われていたのだそうだ。例を上げてみれば、鹿塩の遠山八幡社、大河原の遠山八幡社、下青木の若宮神社、文満の松平神社、釜沢の三正坊神社、桶谷の白沢神社などには、かつて湯立ての釜が残っていたり、榊の葉で集まった人に湯をかけたとか、あるいは笹の葉で人々に湯をふりかけたなどという話が残っている。他にも面をかぶった参詣人が神前ではげしくもみあう、押し祭りが行われたり、舞宮を有する神社もあったらしく、そこで舞いも舞われていたようである。
そんなふうにさかんに行われていた行事の中心となったのが、禰宜(ネギ)と呼ばれる民間の祭祀者であった。それが明治時代になって、皇室崇拝の国家神道化が進められるなかで、大きな変化を強いられることとなった。禰宜が廃止され、神社の合祀が進められ、湯立神楽を司ってきた担い手を失い、舞いの場を失い、大鹿村の神楽は廃れていった。

さて、話は最初のお客様のことに戻る。面の見つかったことをお伝えした後、再度ご来館いただいた。面を扱う手は職人であるだけに慎重である。遠山の方では祭りに開ける以外、見せてももらえないし、もちろん触らせてももらえないそうだ。
模刻のための採寸をしながら、こんな話を聞かせてくれた。面はこれを付けて舞うと、静止した状態とはまるで別物になるという。解りやすい例が、湯立ての湯を素手で振りまくなんて、普通だったらやけどをしてしまう。神懸りの状態としか思えない。神の面をかぶり舞や所作を行うことで、もはや舞う人は人ではなく、神になるのだそうだ。そうなってこそ、面は生き生きとした表情を持つのだそうだ。
ところで、お客様の言葉を借りれば「魅力ある」この白沢神社の祭神の面だが、今や住処をなくし、神として演じられる機会も失い、ひっそりと眠れる宝となってここにある。

いつか、こうした神々の存在を大鹿のみなさんにお知らせしたいものだ、と考えているところである。