ろくべん館だより

『経木のはなし』

 『経木』といっても、三十代くらいの人にはもうピンと来ないかもしれない。木を紙のように薄く削った包装材のことだ。肉や魚や惣菜が店頭で量り売りされていた頃には、包装材は経木と新聞紙が主流だったと思う。たまに納豆を包むのに使われているのを、スーパーの棚でも見かけることはある。

 大阪でこだわりの肉屋を営んでいる知人が、「僕のところでは、肉の包装に経木を使っています。」と話し始めた。この経木、吸湿性・通気性がよく、殺菌作用もあるので、食品の腐敗防止、鮮度保持に優れているということだった。そればかりか、松経木にはグルタミン酸ソーダが含まれていて、食味を良くするとも言われている。なるほど「スグレモノ」なのである。
  「ところで、この経木の歴史をたどってみると、信州では大鹿村が一番古くからこの経木の製造をしていたというのを知っていましたか。」と訊かれた。 初耳である。
「僕の読んだ文献に、確かにそう書かれていました。」

  その文献を探し出してみると、大鹿ではお馴染みの故中村寿人氏談として、次のような話が載っていた。
『北川集落に定着した木地師の一部が、明治三十年頃から経木製造に転向した。小椋そう吉という人が、小渋川の奥で経木を製造していたのは明治四十年頃からで、それ以前は北川で経木を製造していたものらしい。手近に材料となる木がなくなると移動し、小日影、寺沢、栂村、黒田などで小屋掛けしては経木を製造していた。』
この話を読んで、以前釜沢の古老から聞いた話を思い出した。普段は人気のない向かいの山から煙が上がるのを見ると、「ああ来たな」とわかる。そうするうちに何日か経つと、経木を持って集落まで売りに来るのだそうだ。
また昔唐沢に住んでいた人の話にも、水車(くるまや)を動力源にして経木を作っていた人があったと聞いた。それも昭和三十六年の災害で水車ごと流されて、そこで途絶えてしまったということだった。

昭和三十六年の災害以後、多大な被害を被った北川集落は全戸村を離れ、今では木地師たちの文化をたどることは難しい。経木屋についても然り。
しかし彼らの生産物もまた、村の自給を支えるものの一つであった。こういう一つ一つの手仕事が村人の生活を支え、村全体の自給力を高める要素となったのであろう。
この村には、豊かな自然の恵みを利用し、自然と共存する、高度な山国の文化が存在したことは確かなのである。

小学校の低学年だったころ、母がお弁当のおにぎりを経木に包んでくれたのを思い出した。それが高学年くらいになった頃には、おにぎりを包む物はアルミホイルやサランラップに変わっていった。適度に吸湿し、ムレてべたつくことなく、おにぎりを美味しく保っていたこの優れた包装材の価値を、今になって再認識している。細々ではあるが、全国的にも経木屋さんは健在のようだ。例の肉屋の知人の話によると、単価は3円位とのこと。
この経木の材料となるのは、アカマツ、クロマツ、エゾマツ、トウヒ、モミ、ツガなどの他、シナノキ、ドロノキ、サワグルミなど。中でもサワグルミは経木に最適で、白く美しい艶と粘りのある経木ができたそうだ。
ろくべん館の前のドロノキも秋には美しい紅葉を見せてくれる。今はそれもすっかり落葉し、力強い枝を天に伸ばしている。そんな樹木を眺めながら、身の回りにあるものを使って、労をいとわず生活に必要なものを作ってきた村人の技術と知恵は、改めて素晴らしかったと思わずにいられない。昔の人はえらかった、とため息をつくばかりである。