ろくべん館だより

『久原のあしあと』


雪が降る時期に小渋線を車で走ると、川を挟んだ対岸の山に、小渋線と平行して真っ直ぐにどこまでも続く線が刻まれているのが見える。これは昔トロッコが走っていた軌道のなごり。
トロッコが使われていたのは、今の小渋線が開かれるよりもはるか以前の話である。大鹿の青木谷奥から伐り出された木材を製材し、それを当時生田村の部奈まで運び出すのに使われていた。その製材事業を大正六年から昭和四年にかけて、この地で大々的に展開したのが、『久原』の名で親しまれた久原鉱業株式会社であった。
では『久原』とは一体どんな会社だったのだろう。


事業主である久原房之助は、それまでに秋田の小坂鉱山や茨城の日立鉱山の採掘で成功を収め、「鉱山王」と呼ばれていた人物である。彼の事業は日本国中ばかりか海外にまで及び、マレーシア(当時ボルネオ)でゴム園を経営していた時代に造った「クハラロード」という名の道路が、今でも残っているそうである。
久原の事業の特徴は、新しい経営思想、近代的な技術力、そして大資本を背景に急速かつ大規模に展開されることだった。また彼は従業員の福利厚生に金を惜しまず、衣食住に困らぬような方策を実施し、ともすれば気の荒い従業員たちが飲酒や賭博に溺れて争い事が起こるのを牽制するために、娯楽施設を造ることも忘れなかった。小坂鉱山時代から彼が理想としたのは、自分が事業を開く土地をユートピアにすることであった。浮世の荒波とは離れた、労使や地域との対立のない世界を築くことに尽力した。住宅料や光熱費などの住居に掛かる費用は無料、米の値段を上げない、食料品や日用品は市価より安く供給所で販売、掛売りにするなどの生活安定策を施し、従業員と家族の慰安のために芝居、活動写真、踊り、浪曲なども催された。小坂鉱山や日立鉱山に建てられた木造の芝居小屋は、今でも名所となって残っている。
なんとも羽振りの良い経営であったが、もともとの多額の投資や甘い経理に加え、大正十二年の関東大震災で決定的な打撃を受け、久原は財界で次第に食い詰めて行き、昭和三年には名称を久原鉱業から日本産業株式会社と変え、妻の兄である鮎川義介に事業を譲って、彼は今度は政界へと進出するのである。鮎川が譲りうけた事業は、後に日産コンツェルンへと発展してゆくのだが、それはまた別のおはなし。


久原にとっては大鹿での事業はちっぽけなものであったのかもしれない。しかし大鹿の人々にとっては、これほどの大事業は後にも先にも例がないくらいだったに違いない。まだ電気の引かれていなかった村に、そこだけは水力発電が行われ、工場の機会の動力源となり、夜になれば青木の谷に煌煌と明りが灯った。青木谷奥から軌道が敷設され、どんどん伐り出される良材は安康の貯木場、下榑渡の製材所を経て、建材となって村の外へとトロッコで運ばれた。難所といわれていたところもダイナマイトで吹き飛ばし、川にはいくつもの橋をかけ、トロッコは大鹿の森林資源を運び出した。財力というものをいやという程見せつけられた時代ではなかっただろうか。
村の子供が粗末な着物にわら草履で学校に通っていた時代、久原の子供は洋服に靴を履いていた。自分は白米飯の弁当を食べる一方で、「おからだけの友達がいて可哀相だ」と久原の子供は言った。
久原のいた時代、大河原の商店街や学校はつかの間の賑わいをみせた。しかし久原が去った後、大鹿に残されたものは、トロッコの軌道の跡と伐り尽くされ丸裸になった山ばかりだったのではないだろうか。


去年の夏、「私の父は久原で仕事をしていたので、私も子供の時分は大鹿に住んでいたんです。」という年配の方がろくべん館を訪ねていらした。この原稿を考えている最中にその方から電話が掛かって、桜の花の時期に再訪したいとのことだった。今度は久原当時の記憶についてゆっくりお聞きしたいと思っている。