ろくべん館だより

『十三歳の山旅』


 こんなに四方を山に囲まれた土地に住んでいながら、私は未だ嘗て赤石岳にも三伏峠にも、そればかりかこの周囲の山と名のつくピークにさえ登ったことがない。強いて言えば、山の中腹を散策するくらいで終っている。もったいない話である。
 ろくべん館を訪れる人の中には、これから山に登る人もあれば、たった今山から下って来たとういう人もあるが、皆さんのいでたちで大抵はそれとわかる。特に山から下って来た人たちの表情は、どこかすがすがしい。
 そんな中に、この夏はこんな物をご持参された方があった。
 「これは私の義母が女学生の時に、塩見岳から赤石岳を縦走した際の日誌です。」と言って、「夏の山旅」と題された日誌のコピーを見せながら、神戸から来村された初老の紳士はこんな話を始めた。
 「義母は十三歳の時に、登山家だった父親に連れられて赤石岳に登りました。当時南アルプスを縦走する女の子などめったになかったせいか、『山と渓谷』という雑誌に、女の子としては初めて塩見岳から赤石岳というコースを踏破した、という紹介つきで写真が載っています。」とのこと。昭和十年の話である。
 昭和十年に十三歳の女の子が、どんな山旅をしたものか、みなさんにも少しご紹介したいと思う。


 少女の山旅は、真夜中に新宿を発つ夜行列車で始まる。朝の四時半に諏訪湖を通り過ぎ、辰野に到着したのは午前七時。そこから伊那電鉄に乗り換えて、伊那大島まで。さらにバスで峠まで行って、峠の茶屋で昼食をすると記してある。峠とは生田の上峠のことで、そこからは徒歩で鹿塩の山塩館までやって来た。当時は山の麓に到着するまでが、ずいぶんと長旅だった。
 翌朝、彼女と父親は「宮下筆五郎」と「丸山」という大鹿のガイドと共に、三伏峠に向って出発した。途中、昼食の休憩を記した箇所を抜き出してみると。
 「昼は水の渇れた川の石のゴロゴロしている所で食べた。木を組んで綱を下げ飯盒で水を沸かす。薊や野薔薇や其の他の潅木の棘で血を出したり、木の切株につまづいたりして僅か許りの雪を取って来る。そう言う生活が私は大好きだ。」「魚の干物を焼いてアルコールランプで沸かした茶をすする時、私達は大自然の腕の中にある事を自覚するのだ。原始的な生活の中に立ち還った時、我等は初めて原始人の様に自然と親しみ且自然を畏れる気持ちが湧いて来るのであろう。」
  一日目は三伏峠の小屋泊り。「時々小屋の重い戸をゴロゴロッと開けて人が出入りする。其の度に風が吹き入って焚火の煙がカーッと向きを変えるので、其の度にお茶碗を抱えてあちこちする。棟から吊るしたランタンやローソクの火が揺れる。」「窓の隙間から紫色の山が見えた。月が薄く光って白く靄が立ちこめている。私は紫色から紺青に変る山の姿を眺めながら眠ってしまった。」
 二日目「起床四時、焚火の煙に起こされた。小屋の中が煙で一杯だ。前の流れに顔を洗いに行く。手が凍る様に冷たい。」朝食後、塩見岳に向かって出発。森林帯を抜け、ハイマツ帯を通り過ぎ、ガレ場と岩場を登り十一時過ぎに頂上に着いた。「空は青く澄んで富士山の肩に入道雲が光っているだけ。岩に凭れて空をじーっと見ていると、太陽の側に砂の様な点が見えた。『あれなにかしら』と言うと父も見付けて『あれは金星だろう』と言った。」帰りは元来た道をたどって、四時過ぎに小屋へ戻り、七時に就寝。
 三日目「起床五時三十分。今日は三伏小屋と荒川小屋との間を縦走するのだ。途中で露営するのを私の意見で荒川までのばすことにしたのです。だから二日行程を一日にする訳である。昨晩父に『疲れても知らないよ』とか『自分が言い始めたのだから自分で歩け』なんていわれたのを思い出すと、可笑しくなる。」「二時過ぎには荒川岳の手前のガレにかかった。石の上を歩くのだから時間のかかる事夥しい。目の前の尾根に上るのに一時間以上掛かる。やっとの思いで尾根道を頂上へ急ぐ。道を境に右は"太古の火口壁"だと言われている大崖崩れだ。赤褐色の岩盤の露出したのは実に凄い。左は石のガレだ。馬の鞍の様だとはいい形容だと思った。何にしてもこんな道を歩くのは気持ちのいいものではない。」
荒川岳頂上で天気が一変し、サーッとガスが来て霧雨となる。待っていても中々晴れないので、小屋に向って下り始めると、そのうち雨も止み岩清水の出ているところに着いた。「私はもっと休んでいたかったので、水筒の中へ水を入れたり、飯盒を洗う序に是にも水を一杯いれたりした。さて此の水が小屋へ着いてから如何に有難かったか此の時は誰も知る由が無かった。再び一行はジグザグの路を歩き始めた。」荒川小屋に着いてみると、小屋番は里に下っていて留守であった。「私達はいい様なものの、あちらに居る人達は米も水も無い」という事態であった。「私達は余計なお米と先刻沢山汲んで来た水のお陰で楽々と夕食をした。他に三組くらい人が居たが、皆食糧が無かったので、私達の所へ買いに来たので可笑しかった。」
 四日目は小屋を出て一時間半くらいで赤石岳の頂上に立つ。「山頂からは北アルプス・富士・中央アルプス・加賀の白山・信濃境の山々が雲海の上に其の山頂を出して、朝の美しさを讃美している様だ。」頂上で写真を撮ったり、雷鳥の雛を抱いたりして時間を過ごし、「こんな高い良い山を下るのは実におしい」気持ちを抱きながら、下りにかかる。
 広河原小屋で昼食をした後、小渋川の渓谷を下る。渡渉場に来ると「橋が落ちているから二十回位渡渉しますよ」というガイドの言葉に、思わず「ああ嬉しい」と応える。父親に「珍しいから嬉しいんだよ。今にいやになるから」と言われたものの、「いやになるもんですか」と冷たい水の中へ。さすがに渡渉で重くなった足を運び、六時過ぎにやっと大河原の旅館に着いた。「四、五日振りのお風呂に入った。見なかった鏡を見て思わずフフフと笑ってしまった。とても黒くなった。」
 「起床七時、目を覚ましたら父は起きていた。何時もと勝手が違うので何だか変な気がする。『ああ今晩は東京か』と言うと、父が『もう東京へ帰りたくなったか』とおっしゃったので、『帰りたくないやあ。山の中に住んでいたいな』と言うと蚊帳の外で誰かがクスクス笑っているので、きまりが悪くなって寝たふりをしていた。」
上峠でバスを待つ間、道路から赤石岳を見て「私は赤石岳に『さよなら』と心の中で言った。私は山に感謝して居る。『現在健康なのは山のお陰だ』と思うと山が一入懐かしく思われる。『山登りを始めて六年も経つ』と思い出の山の姿がスクリーンに写される様に頭の中に浮かんで来た。」
こうして彼女の十三歳の山旅は四日間の幕を閉じた。


 この少女も今はすでにこの世の人ではない。亡くなる前に娘を枕辺に呼び、自分が死んだら戒名の中に「峰」の一字を入れてほしいと言い遺したそうである。山に登らなくなって久しい時間を経た後でも、彼女の中には昔日の輝くような山旅が、鮮やかに甦っていたのであろう。
 六十歳を過ぎた頃、昔の記録を読み返し、彼女はこう書いている。
 「読んで見て思うことは、何と言う豊かな日々であったろうと言うことです。輝く太陽、千変万化の自然、清らかな空気、鮮やかな緑、透明な水。健康、快活、忍耐、根性、そしてそれを支える若さ。」「今、何処もリゾートハウスが建ちドライブウェイが出来ているでしょう。そして自然も人の心も汚れて貧しくなっていることでしょう。」
 折しも大鹿の中学生達が、三伏峠・小河内岳登山へと今年の夏も行って来た。十三、四歳のみずみずしい感性で、彼らはどんな山旅をしてきたのだろうか。