ろくべん館だより

『誇り高き人々』


 飯田から大平峠を越え、木曽に向って下りきった所にあるのが漆畑(うるしばた)という集落。大きな看板に「木地師の里」と書いてある。看板の通り木地屋さんが何軒も道路沿いに並んでいる。その中の一軒『工房やまと』という所に立ち寄った。

 商品を展示している店舗に入ってみる。店内は広く、椀やお盆や茶筒といった小さな食器類から、テーブル、茶箪笥、水屋といった大きなものまで、たくさんの木地製品が並べられている。入口を入ってすぐに、ハッと息をのむような栃の座卓が置かれていた。独特の透明感のある木地に、ちぢみの模様が浮かんでいる。のっけからその気品に圧倒されてしまう。さらに店内を進むと、栃ばかりでなく、タモ、ケヤキ、クワ、柿などといった材を使って作られた大小の作品が並べられている。材によって、木目の作り出す表情がずいぶんと違うことに驚かされる。ああ、なるほど、木地を生かしてこその木地師なのだ。


 木地師の歴史は古く、木地業の始まりは千年以上も昔の話である。貞観元年(八五九)、文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王が皇位を継がず、異母弟の惟仁親王(清和天皇)にそれを譲り、滋賀県永源寺町の山中にある君ヶ畑に入られた時に遡る。当時そのお供をした家臣と共に、その地で生業として考え出されたものが、ろくろで椀や盆を作る技術であった。

 惟喬親王没後も、代々の皇室から忠臣として大事に扱われ、木地師は全国どこの山にでも入ることを許された。南北朝時代になると、南朝を支える隠れた働きをしたとされ、都を落ち延びる皇族や家臣を導いて、山深い地にかくまったのは彼らであったとも言われている。滋賀から全国の山に散らばって行った木地師たちは、天皇からの許可状である綸旨を携え、十六弁の菊や五七・五三の桐葉の紋章を使い、深山幽谷に生き続けてきたのである。


 大鹿村内の山に木地師が入ったことが、一番古く記録されているのは一七〇八年(宝永五年)であるが、実際にはそのはるか以前から入山していたものと思われる。山に入る前には、地主の承諾を得た上で約定証文を交わし、伐木代金を支払ったことが記録されている。山に入ると小屋を作って生活し、周囲のトチ・ブナ・カツラ・ハンノキ・ヒイラギ・ボウダラ・エンジュ・キワダ・クリ・シオジなどの木を伐採し、ろくろを挽いて椀や盆を作った。製品ができると里に下り、それらを売ったり必要なものと交換していたものであろう。周辺の利用できる木をあらかた伐り尽くすと、また小屋をたたみ、五年から十年といった周期で山を替えた。

 こういった山を渡り歩く木地師の暮らしは、明治の世になるまで続けられた。明治維新以後、山の所有権が確定すると、自由に山に入る権利を失ってしまった彼らは、次第に定住するようになっていったのである。大鹿村内でも鹿塩北川の集落は、昭和三六年の災害で大きな被害を蒙り、住民は移住を余儀なくされたが、かつて木地師が定住した地であった。


 漆畑もまた、明治時代になって木地師たちが集団で定住した集落である。

 「私の家の先祖は、三代前からこの地に住み着きました。明治の初めに大鹿村から移って来たと聞いています。私たちのような木地師の家は、昔は貧しい乞食のような生活をしていたのでしょうね。必要最低限のものだけをまとめて、小屋掛けしては山から山へと移り住んでいたのです。」と工房やまとの七〇歳になる社長は語った。

 娘さんにも話をうかがってみると、親から聞かされたのは、子供時分から差別されたという話が多かったという。漆畑から他の地区にある学校に通うようになると、子供同士でも木地師の子と遊んではいけないと言われ、大人の社会においても然りだったそうだ。だから自然と漆畑の木地師同士の連帯は強まった。今でもその仲の良さは続いていると話してくれた。明治時代以降、多くの木地師が廃業してしまった中で、漆畑の木地師たちが今でも伝統を受け継ぎ製作を続けているのは、その結束が大きな要因となっているのではないだろうか。そして造られた品物が溜まると、一時代前にはその大きな荷を背負って清内路峠を歩いて越え、はるか阿智や飯田の街まで売りに行き、帰りは米を背負って帰って来たと、おばあさんが昔語りに教えてくれたそうである。

 そんな苦労話を聞かせてもらった後、再び店内の陳列品を見て回った。困難な時代を乗り越え、今なお木地師として生きている彼らの誇りや、先祖を敬い慕う気持ちや、作品に対する情熱が、有無を言わさぬ迫力で作品から伝わってくる。精魂込めて造られた品々は、どれも気高い。そして同じ店内には、次代を担う息子さんの現代的な、機能性を考えた新しいデザインの作品も並べられていた。

 「−先ず木に申し訳ないような物を造るな−を信条に今日まできました。」とは、これまで全国の伝統工芸展で数々の賞を受け、日本工芸会正会員でもある社長の言葉である。ここに誇り高い人々は生き続けている。