ろくべん館だより

『周防大島への旅』その1


 この夏、山口県の瀬戸内海に浮かぶ島、周防大島(すおうおおしま)を訪ねた。目的は「宮本常一 生誕一〇〇年の集い」という記念行事に参加するためだった。


 宮本常一は「旅する巨人」と評されるくらい、日本中をくまなく自分の足で歩き回った民俗学者であった。離島の津々浦々、山襞の奧深い山村にまで足を延ばして調査している。そうして集められた資料をもとに、膨大な著作や記録を残しているのだが、彼の業績はそれだけにはとどまらない。 学術調査のための旅をしながらも、『そうした旅の中でいわゆる民俗的なことよりもそこに住む人たちの生活について考えさせられることの方が多くなった。旅先の土地の人々の暮らしぶりは、どこもなかなか苦労が多かった。「民俗的な調査」もいいが「民衆の生活自体を知る」ことの方が「もっと大切なこと」に思えてきたのだ。』との言葉通り、離島や山村の暮らしを真摯に考えた人であった。


離島振興法の設立に奔走し、要望があれば地方の活性化に熱心に応えた。その熱意に少しでも不真面目な態度を示せば厳しい叱責が飛び、一生懸命地域を良くしようとする態度には惜しみなく知恵を貸し、住民たちを激励したそうである。新潟県の佐渡や山古志村などは、宮本が頻繁に足を運び、地域おこしの指導に当たった地である。三年前の中越地震で多大な被害を受けた山古志村で、断絶されてしまった道路の整備に村民が自ら立ち上がったというニュース映像は強く印象に残ったが、かつてここは宮本常一が村民に団結力の大切さ、村を良くしようと努力する大切さを説いた地であったと知って頷けるものがあった。これからの地域おこしへのヒントが、宮本常一という人物の「郷土」に対する姿勢に隠されているのではないかと興味を持ったことが、今回の旅を決めるきっかけであった。 その宮本自身が小さな島の出身であったことが、そんな血の通った民俗学者を生む原点であったのだろう。周防大島は宮本常一の故郷である。


周防大島を訪ねたのは七月三〇日。ジリジリと暑かった今年の夏の真っ盛りのことである。その翌日、周防大島と橋で結ばれた小さな属島、沖家室島(おきかむろじま)に渡った。


沖家室島は人口二〇〇人足らずの過疎化と高齢化の顕著な島である。明治時代に遠洋漁業の基地として賑わった時期には三〇〇〇人もの人が住み、島が傾くとまで言われていた。私がバスを降りたのはちょうど日盛りの時刻で、小高い神社に登り島の通りと家々を見下ろしてみたが、往時の賑わいなど何処へというほど、人っ子一人見えぬひっそりと静かな島だった。


神社から一番目につく建物である寺に行ってみることにした。ここにも誰もいない。神社も寺も境内はこざっぱりと掃除が行き届き、お年寄りたちが手入れしているものか、島の人たちの愛着が感じられる。大きな銀杏の木陰にはベンチが置かれており、島の人の拠り所の一つに違いないのだろうと思われた。アスファルトの照り返しの上を歩いてきた身に、木陰のベンチは海からの風が吹いて、とても心地良かった。寺の建物を見ると、さすがにここは長州大工を多く輩出した土地とあって、こんな小さな島の寺でも立派な造りの建物であった。軒下の彫刻は華美さはなく質素であるが、なかなかの芸術品である。それは周防大島で回った神社や寺の、どれもがそうであった。


島の中の石仏群を見、島内で一番高い山であろう「物見山」なる山まで登り、後はバス通りを引き返すばかりかなと、路地をのぞきながらぶらぶらといくつかのバス停を通り過ぎて来た。島の中程のバス停の日陰のベンチに、お年寄りが座っていた。ここまで来て、やっと話し掛けてもよさそうな人を見つけた。


バス停の目の前には小さな港があり、十ばかりも小型の漁船が停泊していたろうか。「おじいさんも漁に出ていたのですか。」の問いに、「ああ、去年まで三〇年ばかり船に乗っていた。」とおじいさんは話し始めた。


この人は十人の兄弟姉妹の次男として生まれ、狭い島のしきたりに従い若い時に島を離れ、広島県の会社に就職した。その後会社が島根の方に新しく支社を作り、定年退職するまで島根で仕事をしていた。退職後すでに過疎化の始まっていた島に戻り、それから漁船に乗るようになったと語った。


「えっ、おいくつになるんですか?」と聞くと、計算に違わず「九〇歳」という答えが返ってきた。それにしても耳も遠くなければ、会話の反応も抜群、しかも話はおもしろい。ゆったりとした口調で、海を見ながら話す表情はとても穏やかだ。


去年船を下りたのも、妹たちが「何かあって、人様に迷惑がかかるといけないから」とうるさいのでそうしたと言う。まだまだ元気な九〇歳なのだ。船を下りても、小さな畑で自家用の野菜を作り、目の前の海に釣り糸を垂らせば魚も獲る。「今に涼しくなると、あのうちのおばあさんも竿を持って出て来るから、見ていてごらんなさい。女の人だって小鯵だの何だのと釣るもんだよ。」そのおばあさんも九〇を越しているそうである。自分で釣った魚を夕食のおかずにするのだが、一人では食べきれないくらい釣れるから、ご近所にもお裾分けということにあいなるのだそうだ。


バスの来る時間になって、「とても楽しかった。ありがとうございました。どうぞお元気で。」という私に、「ああ、もう会うこともあるまいが・・」とおじいさんは別れを告げた。


六〇を過ぎても帰りたいと思う故郷、年寄りが幸せだと感じて暮らせる土地ということを考えた。そのおじいさんを、私はひそかに大鹿のお年寄りたちの姿に重ねた。


次の日「宮本常一 生誕一〇〇年の集い」の席で、沖家室島の寺、泊清寺の住職と出会うことになる。