ろくべん館だより

『ある限界集落の試み』


 遠山郷のある集落の話である。かつては十二、三軒あった世帯も、今や残るは二軒。近頃話題の「限界集落」どころではない、「消滅寸前」の集落である。その集落で、こんな事業が始まっている。
 空き家となった民家の一つを改修し、山村生活を体験してみたい人たちを受け入れ、山村の景観や生活を味わってもらい、地域の人たちと交流を図る拠点としようという試みである。宿泊は一泊二〇〇〇円、サービスを期待するような宿泊施設ではない。夕方になっても自分で動かない限り、夕飯は出てこない。
そのかわり宿泊者に山村生活体験の一つとして、放置され荒れてしまった畑の開墾を手伝ってもらい、作付けして収穫できた作物は宿泊者が利用できることになっている。生活体験としては、畑作業の他に囲炉裏の火を使って煮炊きするといった生活技術から、里山や水場の整備、民家の改修作業などというちょっとハードな労働まで用意されている。つまり体験してもらうことは、特別なことではなく、山村の人々が日々の暮らしの中で行ってきたことなのである。
 「田舎暮らしをしたい」と理想を抱いている人たちにとって、ここでの山村生活体験は田舎暮らしの良さも厳しさも合わせて、現実を知る手がかりになるかもしれない。またこういう土地で暮らすには、自分たちの暮らしを営むだけでなく、集落を構成する一員としての自覚や責任感が必要だと感じることができるかもしれない。参加者は生活体験をすると同時に、二軒だけでは不可能になった集落の維持を手助けすることにもなるのである。参加者の中には、そういった作業を辛いとかつまらないと感じるだけの人もあるだろうが、土や植物や地元の人と触れながら労働することに楽しさや満足感を感じ取る人もあるはずだ。そして最終的なねらいとしては、千に一人でも万に一人でも、その土地で生活したいという人が出てくれば、という望みを持っての試みなのである。
 これを運営するに当っての主役は地元の人、つまりその二軒の家族。宿泊施設を管理するのも、集落内を案内するのも、畑の耕し方を教えてくれるのも、囲炉裏の火の焚き方を教えてくれるのも隣のおじさんやおばさんということになる。
 自然との触れ合いを求めてやってくる人たちにとって、ここは癒しの場となり自然と共存する生き方を学ぶ場となるであろう。受け入れる側の地元の人々も自分たちの暮らし方、住んできた土地、自然の恵み、自然と共存する中で身につけてきた知識や技術といったものを誇りに感じられるかもしれない。人と人との触れ合いによって、双方が元気になれるのではないだろうか、そんなふうに思える試みである。

 ちょうど、こんな芝居を飯田市で上演する計画がある。
 それは『約束の水』という物語で、ミツコという日系ブラジル人の若い娘が、祖母が亡くなる前に懐かしがった日本の故郷の湧き水を探しに、ある山村を訪れることから始まる。住民が集団移住して廃屋ばかりが残る山奧の集落で、ミツコはある老人と出会う。老人は息子のいる町に住んでいるが、妻を亡くして以来、かつての山の我が家を訪れることが多くなった。息子からは呆け老人扱いされながらも、「ゲートボールやってれば呆けんと言うが、ただ長生きするためにゲートボールやるというのが俺には出来ない。やっぱり体が言うことを聞く間は畑をやったり、山を歩いたりする方がいい」と、自分の居場所を求めて山に帰りたいと思っている。ミツコの言う『約束の水』という名の水場の話を聞いて、老人の遠い記憶をたどるうちに、ミツコの祖母と老人はかつての同級生であったことがわかる。ミツコの祖母が十一歳で家族とブラジルへ移民する時に、担任の先生がみんなを『約束の水』まで連れて行き、お別れの会をしたのだという。
 ミツコの湧き水探しに協力しようと、『約束の水』のあった場所を思いめぐらせてみるのだが、山は削られたり埋め立てられたり道路ができたりして、昔の水場のあった頃の面影はなくなっている。集落のかつての姿を一生懸命思い起こし、水場を探し出そうとする老人を見て、息子夫婦も孫も、老人が実に生き生きとし始めたことに気づかされる。ついには家族や周囲の人々の協力を得て、『約束の水』を探し当て、水場を復活させる夢を語るところで物語りは終わる。
 ところで、この物語の後、はたして老人は山奧の集落で望み通りの幸せな余生が送れたのだろうか?「この地域は将来性がある。過密化した都市では人間らしい生活ができなくなるからな。やっぱり田舎の暮らしが見直されるよ」という登場する一人の村人の言葉のように、集落は再生して行っただろうか?
その後の物語は、舞台を私たちの住む地域に移して進行することになるのだろう。おそらく遠山郷での試みは、その舞台の一つなのだと思う。