ろくべん館だより

『秋葉街道を南下する』


 今年の夏はガソリン価格の高騰で遠出を控える人が多かったと思われるが、そればかりでなく地蔵峠の七月以来の通行止めの影響も加わったせいか、例年より秋葉街道を利用して来村されるお客様は少なかった。
 そのかわりという訳でもないが、徒歩で秋葉街道を北上して来た方が来館された。この方は「塩の道」を歩こうと、かつて太平洋から信州まで塩が運ばれた道の一つとして秋葉街道を、さらに日本海から信州まで塩が運ばれた千国街道を続けて北上し、新潟県糸魚川まで歩く途中での来館だった。後日もう一度、今度は車で訪問してくださった時の話によると、全長約360kmの太平洋から日本海まで列島を横断するこの道を、二週間かけて無事に歩き通したそうだ。道々で出会った出来事や人々や風景を物語ってくださる70代の白髪の旅人を前に、ただただ頭の下がる思いだった。この旅の中でもとりわけ、遠山郷そしてこの大鹿村が印象に残ったとのこと。狭い谷沿いに点在する昔ながらの宿場も、山の斜面にへばり付くような民家や畑も、独特の風景を作り出していて、どこか懐かしい感じがするという。
 ああ、この懐かしい風景とか日本の原風景という言い方は、何人かのお客様が口にしたことがあったではないか。近年多くなったと感じられる中年世代のバイクでのツーリング組や、年齢層はもっと広いと思われる自転車組も、この街道に惹きつけられる何らかの魅力を感じているのだろう。そんな来館者の話を聞きながら、自分ではこれまで上村より南には行ったこともなかった秋葉街道を、もっと南まで行ってみたいと地蔵峠の方を眺めるばかりであった。

 と思うところに、飯田の友人から誘いがあった。秋葉神社の北側にある、竜頭山への古道を歩いてみないかというのである。渡りに船と迷うことなく誘いに乗った。
 林道の行き止まりで車を降り、沢沿いに歩くこと暫し。よく整備された道端には、ヤマジノホトトギスがひっそりと咲いていた。登山道の途中、かつて行者が修行をしたであろうと思われる場所があり、神仏混合の社が建ち、その奥には滝が落ちていた。その場所に立つと、ああ秋葉山は天狗の山であったと思い起された。
 「秋葉古道」と木の札が新しく作られた、歩きやすいこの道を歩いてみると、その昔、人と荷をつけた馬が通ったであろう様子が想像される。そういえば車で通る道々目についたのが、美しく積み上げられた石垣であった。苔むした古い石垣は、人の手によって積み上げられたものに違いない。延々と続く石垣に当時の人々の労力を思ったが、それ程の苦労をしても必要な道であったのだろう。人と物が交流するばかりでなく、信仰の道また「歌舞伎」や「ろくべん」もここを通ってやって来たと考えられる文化の通う道でもあった秋葉街道は細々と繁栄してきた感がある。

 帰る途中寄り道した南信濃村で、おもしろい石仏を見た。案内してくれる人がいなければ、とても見られなかったろう。普通の民家の入口かと思えばそうではなく、これも秋葉古道だという。家の軒下を借りて通るような細道だった。入口にある家に声をかけて、「石仏を見せて下さい」と断りを入れる。その家を通り過ぎるとお堂に突き当たる。そのお堂の中にお目当ての石仏はあった。十体ばかりも納められていたであろうか、素朴な美しさを持つ石仏だった。
 ゆっくりとお堂で時間を過ごす一行に心配になったのか、さっき声を掛けた家のおばあさんが様子を見に来た。「今日は午前中に来れば、ちょうどこのお堂の祭で、ご馳走もあれば、美人も並んでいたのに」と私たち一行を笑わせてくれた。この地域の人たちに信仰される石仏は、暮らしの中に今でも生きているのだなと感じられた。地域の人たちを守り、そして守られている仏たちだったのだ。
 おばあさんの話の中で耳にしたのが、「昭和通り」という言葉だった。私たちが秋葉街道と呼び車で通る道を、地元の人たちは「昭和通り」と呼ぶのだそうだ。お堂で行き止まりのように見えた本来の秋葉街道は、お堂の横を通り、その裏へと続いていた。お堂の裏に回るとその先は山の木立の中に入って行く。賑やかな宿場で一休みした昔の旅人は、道中の無事を祈願したのち、また山中の道へと足を運んだに違いない。
 車のスピードが歩く速さに変わるがごとく、時の流れの変化する秋葉古道の旅であった。