ろくべん館だより

『三正坊神社』 


 釜沢の三正坊というと、耕地に囲まれた古墳のような小さな丘があるきりで、現在では何も残っていない。かつてはここに茂った森があり、その中に舞台を備えた神社が建っていた。夏祭りには、この舞台で歌舞伎が演じられた時代もあった。今は亡き明治生まれの翁達が九〇歳近くなってからも、自分の演じた役のセリフをそらんじてくれたのには驚嘆するばかりだったが、そんな翁達が昔の祭りを語るとき、その時代を懐かしんでは決まって遥か遠くを見るような目つきをしたものだった。


 三正坊神社の起こりは室町時代にまでさかのぼる。もともとは「古宮」と呼ばれる土地に、宗良親王の叔父、妙福院の宮を祀ったものと伝えられている。この妙福院の宮というのは、宗良親王の弟という説、宗良親王の尊号である妙法院の間違いではないかという説まであり、誰を指すのかはっきりしない。その妙福院の三回忌を機に応永十三年(一四〇六)に建立されたといわれる。その古宮は江戸中期の寛延元年(一七四八)、大雨で小河内川が洪水となり社地が危険となったために、下の川原、大島地籍に移された。
 もともとは宗良親王ゆかりの古い宮であったというが、それがどう繋がるものか、三正坊神社に祀られたご神体は「天狗」であった。三正坊は秋葉山の三尺坊、引佐町奥山の半僧坊と並ぶ兄弟といわれ、その正体は口高天狗(からす天狗)なのである。
 その天狗にまつわる伝承がある。


 昔、茂介という乞食が釜沢の集落に住み着くようになり、いつしか村の人から山番など頼まれながら暮していた。その茂介が不思議なことに、毎日夜ともなると下の川原の三正坊神社に出かけていく。怪しく思った村人が後をつけ様子を見ていると、茂介がお宮の石段から誰かに投げられる格好で放り出され、起き上がるとまた石段を上って行く。そうしてまた投げ落とされ、起き上がっては石段へということを一晩中繰り返していた。しかし誰に投げ飛ばされるものか、村人には相手が一向に見えない。不思議に思いそのことを茂介に問いただしてみたところ、三正坊の祭神であるからす天狗を師に、武術の稽古に励んでいたと答えた。人々には見えない天狗の姿も茂介にはよくわかるらしい。
 それから間もなく、茂介はどこへともなく村から姿を消した。村人から忘れ去られようという頃、茂介は天竜川の川端にいた。ある夜、ひどい雷雨に打たれずぶ濡れになった体を乾かそうと焚火にあたっていた茂介のところに、山吹藩の家来が二人、偶然通りかかった。ちょうど新しい刀を手に入れたばかりで、その試し切りがしたくてうずうずしていたところであった。そこにみすぼらしいずぶ濡れの乞食が現われたのを幸いと、乞食を試し切りすべく切りかかった。ところが意外なことに、乞食は白刃を素手で受け止め、二人の家来を逆にねじ伏せてしまった。ほうほうの態で逃げ帰った二人の話を聞き、大勢の家来がやって来たが、一人の乞食を捕らえるどころか手も足も出ないありさまだった。
 この話を聞いた殿様のお声掛かりで御前試合を行うことになったが、山吹藩の中にはこの乞食の茂介に勝る剣士は一人としていなかった。その腕前を買われ、茂介は山吹藩に召抱えられ、武芸の指南役として仕えるようになったということだ。


 こんな話が残っているくらい、武術の神としても崇められた時代があった。その証拠に、宝物として三十六振りもの刀が納められていたと記録されている。また山を生業とする木地師や山師等の職人が信仰し、そして三正坊は秋葉神社がそうであるように、火伏せの神としても村人の信仰を集めた。
 松山義雄氏の『山国の神と人』という著書の中には、三正坊が不浄を嫌う気難しい性格の持ち主として、こんな話が紹介されている。
 ある年、神社の屋根を葺き替えた時のこと、それまで仮宮にいた祭神に葺き替えの終わったお宮に戻っていただこうと、禰宜(ネギ)が祝詞をあげていた。その祝詞が終わるのを待ちきれず、村の若者達が打上げ花火に点火してしまった。しかし何度やっても火は点かなかった。ところが禰宜の祝詞が終わった途端、それまで点かなかった花火が見事に点火して打ち上がったという。これは花火の硝煙の匂いが嫌いな三正坊が、祀りこみの終わるまで花火を上げさせなかったからだ、と村人は信じた。
 そんな三正坊ゆえに、猟師も硝煙臭い鉄砲を担いだときには、決して三正坊の前は通らなかった。また殺生をして猟から戻ると、猟師は家に入る前に外で湯を沸かし、身を清め口をすすぎ穢れを除いてから家に入ったという話が記されている。


 三正坊神社は、戦後、建物の老朽化にともない同じ集落の宇佐八幡神社に合社された。実体がなくなってしまっただけに、謎の多く残る神社である。しかし大正から昭和の初めにかけての話を聞くだけでも、盛大に祭りがおこなわれ、人々の暮らしに密着した神社であったと想像される。かつては歌舞伎が演じられたばかりでなく、「湯立て」もおこなわれ、天狗の面をかぶり人々が舞台に上がって押し合う祭りがあったという。押し合うほどの若者達がいた時代の話である。
 往時の賑わいは何処にか消え、合社された宇佐八幡神社で、気難しいといわれた三正坊も息をひそめているものか、昨今の三正坊橋付近の騒がしさにもじっと我慢していたようだ。それとも遠慮がちにどこかで苦い顔をしていたものであろうか。