ろくべん館だより

『飯田瞽女のはなし』 


   館報おおしかの復刻版をめくってみると、古老の語りの一つに「瞽女と六部のはなし」が載っている。「瞽女(ごぜ)」は、三味線を弾き唄をうたっては門付けをして歩く、盲目の女芸人。「六部(ろくぶ)」は、正しくは「六十六部」といい、日本中の六十六ヵ所の霊場に書写した法華経を納めるため、諸国を行脚した僧のことである。館報に載っている話は、この二人がたまたま同宿したことで道連れになる話なのだが、その内容は館報復刻版を読んでいただくことにして、ここでは、大正時代まではおそらくこの辺にも回って来たのではと思われる「瞽女」に注目してみたい。
 大鹿のような山奥の村まで、峠を越えて盲目の女の人が歩いてくるのは、並大抵のことではない。はたして本当にそういった瞽女さんたちが、ここまでの道のりをやって来たのかどうかはわからない。しかしもし来ていたとすれば、それは飯田に住んでいた人たちだったと思われる。飯田には江戸時代末期から瞽女屋敷とか瞽女長屋といわれる建物があった。瞽女さんたちはそこに住み、飯田の商家を回っては金銭を稼いだり、近郷近在を訪ねては米や食糧を得たりしていた。
 飯田瞽女は、飯田では「瞽女さ」と親しみを込めて呼ばれ、きちんと道理をわきまえた人たちは「物乞い」という捉え方はせず、町の八百屋や魚屋と同じように市井人の一人として見ていたという。門付けといっても、もらう金銭や物品は、三味線を弾き唄をうたってきかせる正当な報酬という認識で瞽女さたちは受け取っていた。


 瞽女社会の決まりでは伴侶を持つことが許されておらず、したがって自分の子を持つことはなく、盲目の子を養女として引き取って育て、一家を成すのが普通だった。そうして養女に三味線や唄の芸を教えた。一家の中には半盲の人がいることもあり、その場合芸を習うよりも、「手ひき」といわれる道案内の役をしたり、家事労働を担当したり、養女の面倒を見たりして、盲目の瞽女たちを助けた。そういった家族を形成した瞽女たちは、明治二十四年の記録を見ると飯田には伊藤組、福本組などと呼ばれる組が六組あったと記されている。
 瞽女の一家が生活を立てるためには、飯田市内をまわる「町まわり」と周辺の農村や山村をまわる「在まわり」を組み合わせて、年間のスケジュールをきちんと立てていたようだ。飯田瞽女が在まわりをする範囲は江戸時代に瞽女長屋ができてからは、だんだんと狭くなっていったようだが、それ以前は遠く浅間山麓の北佐久郡まで出かけたという。けわしい道のりを旅するうちに、病気になって不帰の客となる瞽女が出たこともあってか、そののち飯田の領内をまわる回数を増やし、遠出をすることは少なくなった。
 この在まわりに出るときには、瞽女宿と呼ばれる決まった家に泊まることが多かった。宿屋というよりも、その土地の庄屋や有力者の家が宿となった。
 飯田の語り部として知られた矢沢?(レイ)さんは、家に瞽女さの泊まりに来た時の事をこんなふうに語っている。「瞽女さがきて泊まるっちゅうと、おばあさんはまわりのうちへ全部男衆や女衆を触れに出させ、そうするとみんな集まってくるの。みんなお茶を飲みながら喜んで瞽女さの語りを聞くわけ。わたしはみんなが集まってくるまでの間に瞽女さのそばいっちゃあ、お話きかせてってねだった。それで瞽女さは旅で聞いてきた話などをきかせてくれたわけです。」「瞽女さには、お金でくれる家は少なく、方々から米や味噌、豆などを少しずつもらって風呂敷に包み、それを背負っては帰って行きました。」明治四十一年に下久堅で生まれ、「私は瞽女さが好きだった」という矢沢さんの子供時代に、瞽女さがどんな存在であったか教えてくれる言葉だと思う。


 冒頭に触れた「瞽女と六部のはなし」に登場する瞽女は、実は女装をした少年であった。それに宿に来る時には手ひきも連れず一人だったようなので、目も不自由ではなかったのかもしれない。そうとすれば、瞽女というより、三味線を抱えた旅芸人ということになる。本当の瞽女さが大鹿までやって来たとすれば、労の多さをもいとわない余程の理由があったに違いない。それは自分たちをいつでも歓待してくれる宿主や村人への情であったのかもしれない。
 峠を越える瞽女さたちの姿を、まぶたに思い浮かべてみるに、奥深い山に住む人々との絆に引かれて山道を辿り、またその絆に背を押されて帰り道を辿る、哀愁を漂わせながらもどこか芯の強い後ろ姿が浮かんで来るのである。
 飯田長屋に残った最後の瞽女さは、昭和三十年代にいなくなった。