ろくべん館だより

『消えたふるさと』 


   桶谷集落が、小渋ダム建設のため水没という運命に集団移住を余儀なくされ、集落が丸ごと消滅したのは、昭和三十九年のことであった。
 『小渋川総合開発』なる案が、長野県開発局から村に提示されたのは昭和三十二年のことだったが、それ以前に、建設省は国策としての小渋ダム建設に向け、昭和二十八年から既に予備調査を開始していた。この時点でのダム建設の目的は、発電・かんがい・洪水調節である。これらによって直接の利益を得るのは、いずれも下流域の人々や電力会社であった。
 工事を始めるに当たり、昭和三十六年四月に調査が始められたのだが、ちょうどその二か月後の六月、梅雨前線集中豪雨によって「三六災害」という大惨事が起こる。このときの大きな被害により、ダムは川床を上昇させ災害を増大させると考えられ、村民の反対意見が強まった。そのため県は、小渋川総合開発の計画を変更せざるをえなくなった。従来多目的としてきたダム建設の目的を、防災重点へと置き換えたのである。
 新たに出された計画案には、防災対策ばかりでなく、災害を蒙った河川・農地の復旧、道路・林道の整備などが含まれるようになり、開発というよりも災害復旧の占める割合がかなり大きくなっていた。それまでの絶対反対から、村民意識も徐々に変化して行き、村からの重なる要請と話し合いの結果、昭和三十九年五月十五日個人補償の調印に到った。当日においても交渉がもめて、合意に到るまで二時間延長された末に、ついに桶谷集落の立ち退きが決定となったのである。


 桶谷の地名は「王家谷」に由来するとも言われ、歴史的な謂れのある土地であった。朝廷や幕府の政権争いが、このような山奥の地にまで波及してきた時代、一三三〇年代の話である。新田義貞の攻撃に敗れた鎌倉幕府第十四代執権北条高時は自害し、北条氏は滅亡に向かうのであるが、その子時行は、北条氏とつながりの深かった諏訪氏に預けられる。信濃に逃れた時行が一時身を隠したのが、この桶谷の地であったと言い伝えられている。桶谷には北条を名乗る家が三軒、のちに別家して四軒になったが、カミヤシキ・ベットウ・キドグチという屋号も残されていた。
 以前、桶谷の白沢神社に奉納されていたイザナギ・イザナミ二神の面について、この紙面で触れたことがあったが、これはなかなか立派な面で、部落の人たちに大切に守られていたことが容易に想像される。おそらく桶谷の人々は自分たちの先祖伝来の暮らしに誇りを持ち、文化を大切にはぐくんで来た人たちではなかっただろうか。
 それを象徴するような話が、昭和三十九年、部落解散式を目前に控えた七月十五日のお別れ歌舞伎ではないだろうか。桶谷の歌舞伎は、白沢神社の舞台で演じ続けられてきた。往時、多くの名優を生み出し、人々が歌舞伎に熱を上げてきた集落であったと聞く。その白沢神社は鹿塩の市場神社に合祀され、祭神が遷座したことを報告する祭儀の後、午後四時から歌舞伎の上演となった。この日の演目は「忠臣蔵幕図宅兵衛上使ノ段」「六千両後日之文章重忠館ノ段」「太閤記十段目尼ヶ崎ノ段」「奥州安達原三段目袖萩祭文ノ段」の四幕であった。折からの雨模様で舞台は鹿塩中学校体育館に移ったが、演じる役者もそれを見る観衆も、これが最後の芝居と体育館は熱気につつまれた。暑さの中、重い衣装を身につけ、役者たちは汗と涙の大熱演、それを見る観衆も笑いと涙の感動の舞台であった。人々の胸に忘れられぬ思い出を深く刻み、お別れ歌舞伎は深夜の一時にいたってようやく幕を閉じたという。
 それからひと月もたたぬ八月八日、桶谷の人々は解散式を迎えた。その様子を当時の公民館報はこう報じている。
 「今日は桶谷部落解散の日だ。焼けつくような暑い川原を横切って人の群が続く。人の群は小渋を越えて北条部落へと歩みを早める。
 白沢神社に続いて部落集会所、即ち公共的な建物の処分を了えた桶谷部落には百余名を収容する場所をもたない。解散式の会場は北条浅一さんの家だ。何間建の家か?随分と広い家だ。開けはなされた家には折り詰めと二合ビンが並び今日の担当役員は来賓の応接に忙しい。いみじくも桶谷部落が北条氏によって起り、その終りを北条館でするのも決して意義なしとしないであろう。」
 列席の来賓からは口々に同情、感謝、激励の言葉が並べられたが、桶谷の人々の胸中はとうてい慰められるものではなかったと察する。
 「総合開発と言う美名の陰にこの悲しみのあることを国の為政者はどれ程知っているのだろうか?『離合集散は世の習い』と言ったのは昔のこと、封建時代と趣を異にする近代社会に於いて、何百年来栄えた一つの集落があとかたもなく消え去ることは、人為的であると否とにかかわらず暴力と言うものであるまいか?殊にそれが自然でなくて人為によるものであったとしたら、たとえそれが『公共性』という大きな旗印を掲げ、『補償』と言う代償を払ったとしても『此の地に住みたい』とする人の心をふみにじった暴力と言われても止むを得ないであろう。」
 昭和三十九年、館報「おおしか」第九十六号の熱のこもった記事である。


   この日を最後に、桶谷の人々は永遠にふるさとを失ったことになる。 どんなに金を積んでも買えないもの、それがこの美しいふるさとなのだ。これからの世の中に、たとえいかに公共性が大きかろうと、国策だと言われようとも、ふるさとを荒廃させたり消滅させてしまうことだけは止めようではないか。桶谷集落の運命からわたしたちが学ぶことは大きい。