ろくべん館だより

『みやこびと山に暮らす』


 時代は変われど、大鹿のような山奥の地に、都会から移り住む人はまれである。
 その稀人に好むか好まざるかを問えば、現代の移住者は概ね「好んで」この地に移り住む。いわば「もの好き」が多いと言えるだろう。では、歴史を遡って昔々にこの地に移り住んだ人々はどうだったのだろう?  村の年譜を見ると、平安時代から戦に敗れ都から逃れてきた人々がいる。
 黒沢明の映画「七人の侍」の中で志村喬演じる武士が、「落武者となって、百姓の竹槍にまで追われたものでなければ、この気持ちはわからない」と、農民にまで追われ略奪される落人の惨めさをしみじみと語る印象的な場面あるが、落人となってこの山奥の地まで命からがら逃れて来た人々にとって、ここまで到ってようやく安住の地にたどり着いたと感じることができたのではないだろうか。そういった人々が、この地においては権力争いに巻き込まれることもなく、農民の暮らしに次第に溶け込んでその平安を得たのではないかと想像する。敗走する際に携えてきた念持仏を祀り、堂を建て、土地へ同化しながらその文化へも少なからず影響を与えてきたものだろう。


 一方、今に名を残す歴史上の人物も、この地を一時の住処としている。鎌倉時代の終わり、滅亡に瀕した北条家の血を引く北条時行が、一時桶谷部落に身を潜めていたと伝えられている。桶谷部落は小渋ダム建設により集団移住を強いられ、もはや消えてしまった集落だが、北条を名乗る家が四軒残っていた。時行は結局その後再び戦乱の世に戻り、挙兵して戦うが足利尊氏らに捕えられ、若い命を落とす悲惨な運命をたどる。
 そして大鹿村で最も知られる歴史上の人物といえば、南北朝時代にこの地にやってきた宗良親王であろう。後醍醐天皇の皇子として生まれ、父の政略のため幼少時から山門に預けられ、若くして比叡山の天台座主に就いた。しかし、後醍醐天皇の倒幕計画が露見したことから、小豆島に流され、その後一時復権するが、またも流浪の人となる。南朝の再興を託され都から地方へと散って行った後醍醐天皇の皇子たちは、みな悲運に翻弄される。
 宗良親王も東国への海路の途中嵐で難破の憂き目に遭ったり、常に北朝方から命を狙われ住処を転々としたりと、つらい逃亡生活を送ったことであったろう。どういう経緯であったか定かでないが、このような山奥の地へ手引きをしたのは、惟喬親王を祖とし各地の奥山まで熟知していた木地師であったとも、あるいは後に南朝方へと翻った北条時行の進言であったとも言われている。ともかく宗良親王は大河原の地で大河原城主・香坂高宗に庇護され匿われることとなった。
 親王はその間にも東国での南朝復興を期し、征夷大将軍となって大河原を拠点に出征するが、東国でも越後でもことごとく戦には敗れる。たとえ親王という高貴な身分であろうと、敗残の身は惨めななことに変わりはない。ましてや多くの家臣を失っている。そんな傷心の身で帰る山国の根城は、親王にとっても心を癒す地となったのではないかと想像する。都の暮らしから離れ、やむを得ず隠れ住んだ土地ではあったが、親王にとってもまたここは安らぎを感じた地ではなかっただろうか。
 「あ〜あ、こんな田舎にやって来て、都の人はわたしのことなど忘れてしまうだろうなあ。できることなら都に帰りたいものよ。」そんな本音が聞こえてきそうなものだが、親王は三〇数年この地に留まり、ここで亡くなったと伝えられる。都の貴人がよくここで暮らせたものだと正直思う。命の危険や権力からの使命というやむを得ない理由があったにせよ、案外親王もこの地の暮らしを受け入れていたのではないだろうか。
 もとより親王は歌人の家系の血を受け継いだ人であった。月を愛で、季節の移ろいや鳥の鳴く声に心慰められないはずはない。まして親王は天台座主まで勤めた仏門の人でもあった。修行や亡くなった家臣の菩提を弔うことも日々欠かさなかったことだろう。親王の隠遁生活がささやかでも幸福を感じるものであったことを願う。


 さて、現代の話に戻ろう。
 先日久しぶりに行った東京でのこと。電車に乗っていると、ある駅でアナウンスがあった。「○○駅で起った人身事故のため、上下線とも運転を見合わせております。復旧の目途が立つまでこの駅で停車します。」一緒にいた人の話では、ここのところ毎日のようにどこかの駅で人身事故が起きているという。
 都会で暮らす人々の情況の厳しさは、想像以上のようだ。今、生きづらさを感じながら都会で暮らす人はたくさんいるのだろう。そんな都会人の中から、田舎に移り住む人が増えているのは確かだ。都会はもはやこれ以上の人を収容できなくなっている。戦乱ならずとも混迷の世を避け、大鹿のような山奥の地に平安を求めてやってくる「みやこびと」は、これからも多くはなくとも現われるに違いない。
 何よりも自然が豊かで、人がゆったりと暮らす村に惹かれる人は、いつの時代にも必ずいる。そんな人たちを、この村はこれからもその受容力をもって懐に受け入れ続けてゆくことだろう。