ろくべん館だより

『山国の暮らし』


 山国に暮らす人々は、手に入れられる物を無駄なく使って暮らしてきた。物資には乏しい土地でも、手に入る材料を生かす知恵は豊かだった。
 そんな暮らしぶりを生き生きと伝える資料に「長谷村の民俗」がある。何度広げてもおもしろいと思う。隣村の長谷村文化財専門委員会によって昭和四十八年に発行されたもので、まだ明治生まれの人が自分の経験や記憶を伝えてくれていた時代に作られた資料である。隣村との瑣末な習慣の違いはあっても、概ね同じ山国の暮らしを伝えていることに大差はない。


 中でも「住居習俗」の項を読むと、当時の生活の匂いがしてくる。ろくべん館の奥にも昔の住居を再現してあるが、その間取りを思い浮かべながら読んでみると、人々の語らいや煮炊きの匂いまでがしてくるような気さえしてくる。
 たいていの家は戸口をはいると土間があった。土間に面して馬屋がある。戸口を人が出入りするたびに、人は馬に声をかけたり鼻ズラを撫でたり、馬は人に食べ物をねだったりと人と家畜の交流を想像してみる。土間の奥には「お勝手」があって、野菜くずなど馬屋に放り投げることもできた。お勝手の流しの下には今のような排水管はなく、桶に使用済みの水を溜めてあった。この水もそのまま捨ててしまうことなく、馬の飲み水として使ったり、肥やしの足しに小便に混ぜたり、馬屋の敷藁に打って馬に踏ませたりした。洗いものにも洗剤など使わない、ましてや貴重な油をつかった調理などめったにしなかった時代であった。少しでも栄養分を含んだ水は捨てることはなかった。
 畑に撒いた水には、風呂の水も使われた。風呂の習俗は、現代とはかなり違っている。自分の家で風呂を焚くのは月に二回も焚けば多い方、近所にもらい風呂をしても一週間に一回入ればいい方だったという。風呂を焚く日には、必ず近所に声をかけ、家族だけで入るということはない。たらいの上へ厚板を置いた踏み台の上で、体をさっと流した後は汗もホコリも汚れはみな風呂の中で落とした。これがまた肥料になるというわけである。近所の衆も含めて何人分もの垢が浮いたドロリとした水は、いい肥料ができたと小便と混ぜて畑に撒かれた。こうして水も焚き物も大事に使われた。夏は水の汲みやすい沢のそばやカボチャ棚の下などに風呂桶を運んで入ることもあった。暗い中で入るのだから、たとえお湯が汚れていようが、そんなに気にもならなかったという。そんなことより一生懸命働いた後で、風呂に入れることの気持ちよさの方がまさっていただろう。
 もらい風呂の習慣は、近所とのつき合いが密であった時代だからこそ生きていた。農作業でも普請仕事でもたいへんな作業は「ゆい」でお互いに助け合った。共同作業とそれに対するねぎらいに、感謝し感謝される人間関係が生きていた。現代の家庭の風呂場はまったくと言っていいほどプライベートな部屋であるのにくらべ、もらい風呂はかなりオープンな、文字通り「はだかのつき合い」だった。もらい風呂の習慣は「ゆい」のもとだったとも言える。
 つい最近、よその土地から越してきたある人が、借りた畑を耕してみてこう言った。「ここの土は本当に石ころだらけだね。それにミミズもいない。本当にこれで作物が生長するのだろうか。」確かにやせた畑には違いない。植物の生長は、それの持つ生命力とあとは人間の努力にかかっている。今でこそ化学肥料を投入すればなんでもできるのだろうが、自分の身から排泄されるものまで、一つも余すことなく肥料にまわし努力を重ねてきたのが山の畑だった。
 この土地の人々は、この土地に合った作物を作ってきた。米が作れる土地は農地の割合から言えば猫のひたいのようなもの。たいていは斜面の畑に大麦・小麦・大豆・きび・あわ・蕎麦などの雑穀と野菜を作って食べてきた。保存の出来るものを乾物や漬物にして冬の食糧の足しにした。やせた土地を少しでも肥やし、少しでも収量を上げようと本当に身を粉にして働いてきたのである。生きることと食べることがダイレクトに結びついていた時代だった。こういった暮らしは昭和三〇年代ぐらいが境目となって変わり始めた。


 昔の暮らしぶりを古老の話や文献で知るたびに、山国の人の精一杯生きる姿に頭が下がる。しかしその知恵に感心するだけで終っていいものだろうかと思う。これから後、たとえお金があっても食べ物や燃料が手に入りにくい世の中になったとしても、これだけの知恵が残っていたなら、この環境でこそ生き延びられると思うのだ。
 一番の教科書は「生き字引」たる先輩方には違いない。ただし、こちらは有効期限がついている。それゆえに、「長谷村の民俗」のような資料は貴重なものとして後世に残して行きたいものだと考える。