ろくべん館だより

『自転車に乗って』


 その人は埼玉から来ました、と言った。
 近年、秋葉街道はバイクのツーリングルートとして人気があるようだが、そのバイクほど見かけることは少ないとしても、自転車で旅をする人にも人気があるらしい。
 出勤前、朝の秋葉街道の路上に、自転車を漕ぐその人を見かけた。わずかに上りの傾斜のついた道を、一生懸命進んでいた。館を開けてしばらく経った頃、見覚えのある姿がドアを開けて入って来た。
 館内を見学し終えて、玄関口に戻ってきたその人に声をかけてみた。
 「今朝、国道を自転車で走っていらっしゃったでしょう?」
 「地蔵峠まで行って帰って来たところです。」
 峠まで延々と上りの続く道を走ったというその人は、七十歳前後かと見受けられた。
 「大変だったでしょう?」
 「いや、私にとって一漕ぎ一漕ぎ、前に進むということは快感なんですよ」という。その言葉を実にさわやかに言ってのけたのである。はっとした。何かわけがありそうだ。


 「実はね、私は股関節の手術を受けて、人工骨を入れているんです。もうまともに歩くことはできないものとあきらめていたんです。」
 そういえば、歩く時にかすかに足を引きずっていた。
 「手術を受けた後、入院している病院の窓から路を見下ろしていたらね、おばあさんが老人用のショッピングカートを押して歩いていたんですよ。これだと思ったんです。それで退院したらああやって歩いてみようと思っていたわけ。退院して家に帰ってみたら、自転車が目について、あのカートの代わりにこれを助けに歩けないかなと試してみたんです。やってみたら、何の支えもなしに歩くよりは具合がいい。そうしているうちに、ちょっと乗ってみようかという気になった。そしたら乗れたんです。自転車を漕いでも股関節に支障がなかったんです。」
 補助なしで歩くことをあきらめていた人が、自転車で風を切って走ることができた感動がそのまま伝わってくるようだった。そのことを担当の医師に話したら、医師も自転車なら大丈夫でしょうと、太鼓判を押してくれたそうだ。ただし、立ち漕ぎはしない方がいいでしょうとのこと。体重が股関節に直接かかることは避ける必要があるのだそうだ。
 坂道を上る時も立ち漕ぎは絶対しない。「しかし今の自転車の性能はとても良くなっていて、ギアを軽くすれば、時間はかかっても十分坂道を漕いで上ることができます。」
 そうやって自転車に乗るうちに、少しずつ脚力も回復し、それにつれて遠くに出かけるようになったという。
 「今はやはり体力に不安がありますから、峠を上ってもそれを越すことまではしません。車に自転車を積んで出かけ、目的の地点に着いたら、そこから自転車で走り始めます。峠まで上ったら、そこからまた車を停めた所まで戻ってくるわけです。」
 「決して無理はしません。無理だと思ったら、帰ってくればいいだけの話です。」
 無理はしないと言っても、ひたすら上っててっぺんに到着した時、そして来た道を下る時の爽快感は、上りの苦しさをいっぺんに吹き飛ばすだろう。「峠を越えてどこまでも走って行けたらと思うこともあります。それは憧れです。」


 その人が来館したのは二年前のことになる。深く心に残る人となった。今もどこかの峠道をひたすら走っているだろうか。