ろくべん館だより

『滝沢をあるく』


 滝沢といえば、大鹿村民がまず思い浮かべるのは、「ゴミの最終処分場」だろう。他には何もない。滝沢橋の手前を川の上流に向かって進むと、処分場の管理棟までで道は行き止まりとなる。  そこに立って、対岸の緑濃い山を眺めても、人家の痕跡など見当たらない。滝沢橋の上から狭い谷の奥を望んでも、集落があったことなど想像するのはむずかしい。ここで時計を五〇年以上戻してみたら、どんな姿が現れるだろうか。


 滝沢橋の手前には、かつて桶谷集落があり、家が点在していた。今は処分場で行き止まりになっている道を、滝沢川上流に向かってもっと奥に歩くと八戸の中山集落があった。そして川の対岸には、中川村滝沢集落の家がぽつりぽつりと七軒あった。谷を挟んで、行政上は村も違えば郡も違うのだが、この三つの集落の人々は互いに往き来することが多く、一つの生活圏を成していた。
 例えば、どの集落も炭焼きがさかんで、ふつう冬場の仕事とする所が多い中、中山などは一年中木を伐って炭を焼いていたという。それらの炭は、桶谷の西端にあった薪炭倉庫に集められた。滝沢からも村境を越えて、炭が運び込まれていた。


 先月、中川公民館主催の三六災の被災地を訪ねる講座に加えていただき、滝沢集落跡をあるいてみた。かつて住んでいた方の案内つきである。橋の周辺には四軒の家があった。この一軒に住んでいた沢渡さんの話を聴く。
 当時、沢渡さんは大河原の保育園に、特別に許可を得て通っていた。その頃は桶谷から大河原へバスが運行されており、それを利用していた。中川村に通うより、その方がずっと都合がよかった。小学生もまた、そのバスに乗って大河原の学校へ通う子があったという。
 滝沢は明治時代から中川村桑原に含まれており、学校も桑原の分校まで四km、本校となると六kmの山道を歩いて通わねばならなかった。そんな中で、おそらく分校の先生が記録したものだろうが、こんな話が残っている。
 ある小学校三年生の女の子は、大河原小学校に通ったほうがむしろ近いくらいの場所から、山を越えて桑原の分校まで通っていた。父母は朝早くから山仕事に出て行ってしまうので、登校前にその子と飼っている犬だけが家に残される。一年生の頃から山を越えて長い距離を歩いて学校に通ってきた。寂しく、また危険も伴う道中には、しかしその子と一緒に、いつも犬がお伴をしていたという。子供を学校近くまで送り届けると、犬はまた家まで来た道を戻って行き、学校が終わる頃になると、ちゃんと迎えに来て、また一緒に家までの道を帰るのである。苦労の多い生活がしのばれる中にも、これはなんともほほえましい話である。
 ところで沢渡さんの話だが、三六災の時、その日保育園から帰ってくると、滝沢川が増水していて橋が渡れず、向こうに見えている家に帰ることができなくなっていた。橋の手前には桶谷の宮島さんという家があって、そこで水が引くのを待つことになった。その宮島さんにお世話になったまま、結局、沢渡さんは一ヶ月ほど過ごしたそうである。その間、大鹿から流れる小渋川を見ると、材木が積み木のように流れ、石が浮き、牛が水から首を出して流されていったという。そして災害は滝沢の家屋や耕地にも、大きな爪あとを残していった。
 こんな話を聴きながら、処分場の方へ道をたどった。処分場の手前で、舗装道をはずれて川まで下り、川にハシゴを渡して向こう岸へ移った。道とも思えぬ道を上って行くと、やがて人の住んでいた痕跡が現われた。石垣を積んで平らな土地を造ってあるのはかつての田んぼ、それより上に住居跡がある。錆びた農具や茶碗のかけら、ころがった酒ビンなどに暮らしの匂いがわずかに残っている。さらに小さな沢を渡って、次に張り出した尾根にはヒナ壇状に田んぼと住まいの跡、そして立派な墓地が残されていた。墓石をみると、古いものは享保、元文の年号が刻まれている。三百年も前のこの時代に立派な墓石を立てていることからみても、ここが貧しい土地だったとは考えられない。
 ひだ状に張り出した尾根ごとに、あるいは川沿いの平らなくぼ地ごとに、住居や田畑が一軒ずつ造られ、あたかも小さな城のように思える。お互いに助け合いながらも、それぞれが独立性を保っていたのではないかと想像され、さぞ「住めばみやこ」だったのだろうと思う。山はよく手入れされ、滝から水を引いて田を耕し、急斜面には桑を植え、畑では小麦・大麦・芋・こんにゃく等を作り、お茶の木を植えている家もあったときく。家畜も牛・馬・綿羊・ヤギ・ニワトリ・ウサギなどが飼われていた。少なくとも江戸時代から、ここにはこぢんまりとした豊かな集落が存在していたのだ。


 災害の後、小渋ダム建設が決まると、七軒の滝沢集落のうち五軒が水没となった。残された二軒は、家屋は無事でも孤立した状態で暮らして行くことは困難なことから、移転を希望し、これをもって滝沢の集落はその歴史を閉じることとなった。
 今回の滝沢訪問は、本当に小さな旅ではあるが、時間をさかのぼる貴重な旅であった。災害は忘れたころにやって来るともいい、歴史は繰り返すともいう。三六災後、大鹿でも複数の集落が消滅した。今度の東北を襲った大震災では、一体いくつの集落が消えてしまったのだろう。


 滝沢訪問の最後に、別天地が待っていた。滝沢の地名の由来ともなる、滝が終点だった。かつては子どもたちの格好の遊び場だった。滝つぼでは魚を取り、水が削った滑らかな一枚岩は、スリル満点のすべり台となったそうだ。山道を歩いた後のほてりを、滝の冷涼な空気で冷やしながら、子どもたちの遊ぶ活気ある景色を思い描いた。時ならぬ一行を迎え入れた滝も、人が立ち去った後は、またすぐに滝の音が響くばかりの別天地に戻ったことだろう。