ろくべん館だより

『あれから50年―北川のはなし』


 「山間部の土砂災害というのは本当に恐ろしいもので、土地がどこかに行ってしまう。あれだけの畑や家があったのに、どこに行ってしまったものかと思う。今、北川に行ったって、そんなものがどこにあったのか、まるでわからない。不思議なもんだなあ。」
 分杭峠の手前、大鹿村の北端に位置していたかつての北川集落。住居跡らしき土地も確かに見られるが、最も栄えた時期にはここに百戸以上もの家があったとか、駒ヶ根や長谷・高遠との物資の交流が盛んに行われていたとか、高遠からの国鉄バスが走っていたなどというのは、今となっては夢の話ではないかと思える。


 災害はいつ起こるかわからない。それはわかっていても、人は現実に起こるまで油断していることがほとんどなのだと思う。実際に自分の住んでいる土地や家が崩れ落ちることなど想像していたら、安心して住んではいられない。
 それでも災害は起こる。今年は私たちの住むこの日本列島が、『災害列島』であることをまざまざと見せつけられることとなった。
 津波が来るとわかっていても、「まさかここまでは」と思って津波にのまれた人がたくさんいた。それと同じ事を、北川で三六災を経験した人の話の中にも聞いた。
 「考えてみると、一回もそんなおっかない目に遭ったことがない。山の中で穏和に暮らしてきたので、恐ろしいことなど考えたこともなかった。だもんで、目の前の道路が水に浸かったって、うちの庭が水に浸かったって、まだ逃げようという気がなかった。みんなそうだったよ。いよいよ上から人が流れてきたぞとなってから、さてそれじゃ逃げなきゃいかんということになった。」
 「前での山が、まるで手で掻いたように崩れてナギができていった。立ち木が落ちてくると、立ったまま一瞬止まる。次の瞬間には川に流されて行く。そうすると川の圧力で枝が取れて、何本も何本もうどんのように流れて行った。それを子どもを背負ったままずっと見ていた。そうするうちに裏の石垣から水が落ちてきて、もう逃げた方がいいと隣に言われたので、おばあさんは位牌を持って逃げたが、中気のおじいさんは『うちなんか流れん』と言って逃げようとしない。私はおじいさんの腰に抱きついて『おじいちゃんも逃げてー』と泣いていた。そうこうするうち土間まで水が入ってきて、やっとのことでおじいさんと一緒に逃げた。」
 「子ども心に覚えていることなのですが、さっきまで晴れていた空が、急に変わるってこういうことなのかなっていう記憶が、この度の震災で今までなんでもなかったところに津波が、という光景と重なるんです。ずっと長い間続いていた雨が、その日だけ晴れたんです。朝、学校のグラウンドには二十四人子どもがいて、男の先生と女の先生が並んでいました。明日から給食になりますというお話、食缶とか新しいものが来たという話を、その朝先生がされたんです。ああ、明日から給食になるんだって、本当に喜んだ記憶があります。お昼ぐらいから天気が急変して、お昼を食べてしばらくしたら、父が先生に、子どもたちをすぐにうちへ帰した方がいいと、連れに来たんです。そして私たちが橋を渡って振り向いたら、もう橋が水に浸かっていました。家まで帰ると、おじいちゃんとおばあちゃんが私たち四人のきょうだいを連れて、少し上の方の親戚へ避難しました。その時に両親たちはどうするんだろうと、振り返りながら親戚まで行ったことを覚えています。夜になって、両親がずぶ濡れになって尾根伝いに親戚の家まで来た時には、ああ家族がバラバラにならずにすんだと思いました。」


 命からがら避難した人々は、それから手に入る食料を持ち寄って数ヶ所で集団生活を始めた。水に浸かった蔵の中から持ち出した米は、炊くと色がついていて、子どもが「味ごはんみたいでうれしい」と言ったという。着の身着のままで逃げた人たちにとって、状況は厳しかったが、みんなが我慢し協力しあって過ごしていた。救援の物資をヘリコプターが運んでくるようになるまで、北川はしばらくの間、孤立状態が続いた。
 「ヘリが初めて来た時、上空をぐるりと回って飛ぶのを見て、ああ助かったと、一人も泣かない人はいなかった。手を振ってわんわん泣いた。」


 当時三八戸あった家のうち、壊れず残ったのは一〇戸くらい、犠牲者は三名。公会堂前の橋が詰まっていたため橋げたをはずそうと作業していた五人のうち三人が、公会堂が流されるのと一緒に濁流に巻き込まれて亡くなった。
 北川分校も流され、小学生たちは一〇km以上離れた本校まで通うこととなった。
 「子どもたちは、上のうちからだんだんに呼びあって、まとまって歩いて本校まで行き、寄宿舎で一週間暮らして、また土曜日になるとみんなで帰って来ました。最初は理科室で寝泊りして、そのうちに本校のすぐ近くの空き家みたいな所に移りました。みんなで二十四人、『二十四の瞳』じゃないですが、一人ずつ『さよなら』と言いながらだんだんに帰って行きました。家に帰りたくて脱走したこともあって、でも捕まっちゃったりして。弟が泣くのを、一週間我慢すればうちへ帰れるからって言って慰めました。私が三年生、弟は一年生でした。三時間かかって家へ歩いて帰ってもぜんぜん遠くない、もう帰れるという一心でした。日曜日の夕方、また寄宿舎に行くのがつらかった。」 


 半月ほど経つうちには、家に戻れる人は修繕したり仮小屋を建てて住んだが、住むことをあきらめた人は親戚を頼って散らばっていった。仮設住宅も建てられたが、結局壊滅的な被害を受けた集落は、村から昭和三十八年の三月末までに全戸移住をするよう通達を受けた。
 「おられないということはわかっているんだが、さてこれからどうしようということは決めかねていた。だけどみんなで集まって相談するなんていう時間の余裕はなかった。さよならを言う隙もなかった。」


 「大きくなって桃源郷という言葉を聞いたときに、私は北川のことを思い出す。桑グミを食べて、小柿を食べて育った。石垣があって、細い道があって、川が流れている。ああ桃源郷ってこういう所なのかなって思う。一番好きなのは、分杭峠に上ると美和ダムの方まで見渡せる光景。世界ってあれだけしかないと思っていた。あの山の向こうは何があるんだろうって思っていた。日本の中で一番いい場所だなと、今でもそう思います。」
 故郷を語るこれほどに美しい言葉を、私は知らない。
 あれほどの恐ろしい経験をし、不安を抱えながら新しい土地へと移住せざるを得なかった人々が、異口同音に語る故郷への深い郷愁と愛情に胸うたれる。
 「私が好きなのは、分杭の頭からずーっとむこうの深ヶ沢から安康の奥まで、どこに行っても川の音がすること。本当に水清く、緑濃い素晴らしい村だと思っています。鮭じゃないけど、その水を飲んで三十年も生きてきた私には、大鹿への帰巣本能があるのだと思います。」


 失った故郷への想いというのは、これ程に強いものなのか。今日、復興に苦難を強いられている人々、帰りたくても故郷に帰れないでいる人々のことを想う。 
 私たちの暮らす大鹿村が、いつまでも美しい故郷としてあることを願わずにいられない。