ろくべん館だより

『自然と人間』


 夏休みのある日、小学生の団体を引率した近隣の「少年自然の家《からの見学者をお迎えした。引率をされている方が、大鹿のどんなところを回るのかという質問に、こんな答えをくださった。
 「私は、大西山を時々見に来るのです。この剥き出しの災害のあとを見るためです。これを見ると、自然というのは、人間に惠みを与え心を癒してくれる美しいだけの存在ではないと教えられます。人間がどう逆立ちしてもかなわない力を持っている、それを子どもたちにも見て欲しいと思います《
 うかつであった。大西山を訪れる人は、花見や夏祭りの花火が目当ての人ばかりではなかった。災害を風化させない、その一番の証しがここにあったと再認識させられた。毎日、あの岩肌をみているうちに、「災害《という言葉が意識から遠ざかってしまっていた。それを村外からの来訪者に教えられた。


 九月の初めに紀伊半島南部を訪ねた。ちょうど一年前、台風のもたらした大雨によって大きな被害の出た地域だった。山には土砂崩れのあとがあちこちに見られ、道路の復旧工事がまだまだ続けられていた。だが、復興の途上にあるとはいえ、世界遺産となった熊野古道はじめ風光明媚な観光地を有するせいか、多くの人が行く場所はすっかり活気を取り戻しているように感じられた。
 那智大社などは、本殿に裏山の土砂が流れ込むという事態に至ったが、被災後すぐに、神職に就く方々も社前に軒をつらねる土産物店も総出で、人力で土砂を掻き出したのだと聞いた。「何事もなかったようでしょう《と神職が誇るほどに、元通りきれいにされていた。
 この一年前の台風一二号は大型で動きが遅かったがために、長時間にわたって広い範囲に大雨を降らせた台風だった。「深層崩壊《という言葉を頻繁に耳にしたが、斜面深部からの土砂崩れが和歌山、三重、奈良の山間地で起こった。それらはまさに大西山の崩落面のような山肌を見せていた。
 自然の猛威を生々しい痕跡と人々の話から知らされたが、と同時にそこから立ち上がろうとする、人々の腹の底から湧き上がるような力を感じずにはいられなかった。


 先日、神職に就いている友人が、岩手県の被災地の神社で行われる例祭の手伝いに出かけた。建物の土台だけが残った海辺のまちで開かれた祭りは、その光景を忘れさせるほどの熱気で盛り上がったという。そしてふと目を転ずれば、鮮やかな青い海が広がっていた。祭りがあるからと、離散していた住人たちは再び集まった。友人がひとりの男性から聞いたのは、「自分は漁師ではないけれど、海から離れることはできない。たとえ津波に襲われても、ひと月離れると潮の匂いが恋しくなる《という言葉だった。
 それはたとえば、山奥の家に一人で暮らす高齢者が、まちに住む息子のところに招かれていっても、やることもなくテレビをみて一日暮らすような生活では、じきに山の家に帰りたくなるのも道理で、そんな心持ちと似ているような気がする。比べるのはおかしな話かもしれないが、住み慣れた土地や家に暮らすことの幸せが、失ってみて、あるいは離れてみて強く感じられることに変わりないのかもしれない。
 一〇〇〇年に一度の大地震は、それこそ人々の度肝を抜く想像を超える大災害だったが、そうでなくとも毎年のように日本は災害に見舞われる。「地震・雷・火事・親父《とはよくいわれるが、「親父《はもともとは「大山風(おおやまじ)《、つまり台風のことなのだそうだ。怖い天災が四つ並べられていたわけだ。災害のない土地がはたして日本にあるのだろうか?どんなに痛めつけられても、人は失われた土地にまた時間とともにもどってくる。住むことに適さなければ農地に利用したり、かさ上げなどの手をくわえたり、経験と工夫を重ねて住み続けてきたのが、この国の自然との付き合い方だったのだろう。
 しかし今回の放射能に汚染された土地ばかりは、人間がいかに工夫したところで共存できるとは思えない。そしてその傷痕は目にみえない。ふるさとは美しいままに無人の土地と化した。こんな災いは、「地震・雷《と一緒に並べたくはない。自然は操れると思い込んでいた人間への、痛烈なしっぺ返しだった。


 わが村の山肌は、動かないと思っていたものがとてつもない塊りになって落ちてきたことを、毎日黙って示している。五〇年それを語り継いで来てくれた村人とともに、ただ黙しつつ語っている。自然の力を、そして倒れ伏してもそこから起き上がった人々の再生を、大西山は私たちに提示している。人間が世代を変えてもなお、その山肌はあり続けるだろう。