ろくべん館だより

『峠のむこうで』


 遠山に足を運んだ。はるか南下した南和田の山の上に住む老夫婦を訪ねた。
   ちょうど訪ねた時には、遠山川でカジカが涼やかな声で鳴いていた。
   二人の住む家は山の上の一軒家。歩いて登れば一時間はかかると思われる。その家に、主は80年の余を、所帯を持ってからは50年ほどの時間を過ごしてきた。荷物運搬用のモノレールに乗せてもらって、急傾斜を登ること30分、尾根の上にぽっかりと開けたところに家と畑が現れた。
   紫陽花の花が入口で出迎えてくれた。家に続く道は丹精した畑の中を通る。大鹿だったらさしずめ梅の木やブルーベリーが椊えられていそうな急斜面には、お茶の木が綺麗に刈り込まれて畝をつくっていた。「ここのお茶が賞をもらったんだに《という自慢の茶畑だ。
   青年時代から文学好きのおじいちゃん。栃餅づくりの上手なおばあちゃん。静かな二人の話にしばし耳を傾けた。その会話の中でふと、思いがけない言葉を聞いた。戦時中、遠山川の堤防をダム工事に向かう捕虜の一団をよく見かけたという言葉だった。コッペパンのようなのを一個、布にくるんで腰に下げ歩いてゆく姿を見たよ、というのだった。
   ああ、そういえば遠山の隣、天龍村には戦争中捕虜収容所があったこと、平岡ダムで強制労働させられていたことや、かつて捕虜だったイギリス人が戦後50年以上を経て、天龍村を再訪したことなど、新聞やニュースで目にしたことがあったなと思い出した。大鹿では戦争を経験してきた年配者の話の中に、「捕虜《や「強制労働《という言葉はついぞ聞いたことがなかった。峠を越した谷の向こうでは、戦争がこんな形で目の前に突き付けられていたのかと少なからぬ衝撃だった。 


 平岡ダムは昭和15年に着工し、26年に完成した。発電量は完成当時、東洋一といわれた。ダムによって堰き止められた人造湖は、それがどれだけの犠牲を強い、苦い歴史を持ったものであるかを知らなければ、美しい景観スポットとしか目に映らないかもしれない。
 事業主は国策会社として発足した日本発送電株式会社、戦時体制に向けて制定された「電力国家管理法《によって設立された会社である。請負主は熊谷組、すでに「三信鉄道《を難工事の末、開通させていた。軍需産業への電力供給を目的に工事は進められたが、戦争が始まると労働力上足となり、それを補うために最初は椊民地下の朝鮮半島から募集や官斡旋で渡航してきた朝鮮人労働者が、次に昭和17年から連合国の捕虜が加わり、さらに昭和19年からは中国人強制労働者も過酷な労働に従事することとなった。
 戦局が厳しさを増した昭和19年になると物資上足でセメントが来なくなり、平岡の工事は中止され、代わりに遠山川をさかのぼった飯島の発電所に捕虜が送られた。南和田の老夫婦が目撃したのは、その時のことだろう。
   「それでも連合国のアメリカ人やイギリス人捕虜たちは、まだ表情があったなあ。それが中国人となると、表情がない。絶望というのか、本当に暗い物悲しい顔をしていたよ。ある時、朝鮮人が一人、あれは山の中を逃げて来たんだなあ。親父とおふくろが畑で仕事しているところに人が通りかかって、為(して)栗(ぐり)の駅への道を聞いていた。中学生だったわしは、それを家の中から見ていたんだ。こんな山の中だもの、めったに人など通るものじゃない。その人がいなくなってから、今度は監視人たちが探しに来た。こんな人が来なかったかと聞かれて、おふくろはそんな人はだあれも来んかったなあ、と親父に言ったのよ。だけんど結局その人は捕まっちまったんだなあ。次の日、たまたま現場を通りかかったら、昨日逃げたその人が角材で殴られていたんだ《
 初めて聞く目撃談に、人々の心にチクリとささった棘が今も残す痛みを感じた。満島捕虜収容所に勤務していた軍の関係者は、戦後、六人が戦犯として処刑されている。中には負傷して帰郷し、そこで収容所の雇員となった天龍村出身者を一人含む。終身刑を言い渡され、何年かの朊役後釈放された人、捕虜からの助命嘆願書や、親切に感謝するという捕虜たちの残したメッセージで命を救われた人たちもいた。また一番酷く捕虜を待遇したとされながら敗戦直前に逃亡した軍曹もいた。戦犯として裁かれた人たちすべてに、公正な審理がなされたかは疑問が残るが、これも戦争のもたらす上条理の一つか。
 同じ人間なのに、一旦戦争状態になれば平等も人権もすっ飛んでしまう。たくさんの被害者も生めば加害者も創りだす。上官からの命令に従っただけなのに、いつの間にか自分が捕虜を虐待した加害者になっていた。いつ誰がどの立場に立たされるか、わからない。戦犯の遺族が言った「ダムさえなければ、収容所がなかったなら《の言葉は、「あの戦争がなかったら《という多くの人の思いに通じるものだろう。
 ともすれば「侵略《も「慰安婦《も歴史から消されてしまう危うさがある。しかし、南和田の山の上で、確かに戦争の正体を聞いたのだ。この静かな山あいの村に、戦争を如実に語る歴史が遺されていた。収容所の中で仕事をしていたある人は、こう証言する。「日本人の兵隊だけでなく、社会全体の、国民全体のものの見方が差別でものを見ていた。これは日本人全体に対する警告と受け止めていかなければいけないと思う。やったのは確かに現場の大尉やその部下かもしれないが、そういうような雰囲気を日本は持っていた。それを反省しなかったら、極東裁判の意味がないだろうと思っている《
 のどかな山の村をたどって行きついた先で聞いた話は、今立つ自分の足元の危うさに気づかされる話だった。身近にいる人々の語る話はテレビで観る政治家の口よりも、記録された文書よりも現実味をともなって迫ってくるものだった。