中央構造線の命名者エドムント・ナウマン


山下昇訳『ナウマン論文集』東海大学出版会(1996年刊)の表紙

ドイツ人エドムント・ナウマンは1854年生まれ。20才でミュンヘン大学を卒業し、1875年(明治8年)に21才で来日、1877年に設立された東京帝国大学地質学採鉱学科の初代教授になりました。また、内務省地理局地質課(のちの農商務省地質調査所)の設立を進言し、1879年に地理局地質課に移り、全国の地質調査計画を立案しました。ナウマンは、1885年に帰国するまでの10年間に本州・四国・九州の、のべ10万kmを踏査し、最初の日本列島地質図を1885年にベルリンの国際学会(万国地質学会議)で発表しました。


山下昇訳『ナウマン論文集』掲載図に加筆。原図は「日本群島、その地理学的地質学的概要」第X図版、横浜開港資料館所蔵。山下昇訳本には、最初の地質図は現存していないが、それと縮尺以外は同じものだと説明されています。

原図の片麻岩と結晶片岩に着色して強調しました。

1885年の『日本群島の構造と起源について』では、「始源片麻岩」は、「長崎北方の彼杵(そのき)半島と天竜川上流の東側」の2ヶ所だけに確認されるとしています。天竜川上流東側のものについては「彼杵片麻岩ほど完全には平行組織を示さないで、むしろ花崗岩への漸移岩を形成する傾向がある。ここでは走向は北北東から北東で、傾斜は西落ちである。この片麻岩は、西縁では河岸段丘の礫層に覆われ、東縁では、大きな断層により突然断たれている」(山下訳p173)と記しています。いまからみても、領家片麻岩と領家古期花崗岩の関係や、走向傾斜がよく描かれていますし、これらの東縁を突然断つ大きな断層こそ、中央構造線そのものです。

なお、彼杵半島の変成岩は、低温高圧型の変成岩で、ナウマンが「始源片麻岩」としたのは誤りということになります。

一方の結晶片岩については、「結晶片岩系は群島の構成の上で大変重要な部分をなしていて、ほとんどすべての場合、多少とも狭く長い地帯をなして出現する。そして、この系に属する一つの帯は、四国の北部を通り、その延長は紀伊半島の北部に現れる」(山下訳p174)と記しています。佐田岬半島や二見浦の突出部や、愛媛県東部の屈曲(桜樹屈曲)、吉野川が結晶片岩帯を横断する大歩危の様子も記されています。「電気石片岩」(のちに小藤文次郎により電気石ではなく紅簾石であることが明らかにされた・・・訳者注)は、別子、銅山川渓谷、徳島付近、和歌山付近、「関東の老山地」が平野に臨むところ(長瀞)に産するとも記しています。いまの知見と同じく「これらの結晶片岩の傾斜は、一般に内側(日本海側)に向かって傾いている」とも記されています。

なお幡豆と筑波の変成岩は高温型で、ナウマンがこれらを結晶片岩としたのは誤りです。

『日本群島の構造と起源について』にはまだ「フォッサマグナ」の語は出てきませんが、箱根から日本海の海岸まで走る「大きな幅広い溝」があり、それを「断裂地域の大溝」と呼んでいます。そして、その地域では前進する褶曲帯が阻止されて生じたような走向(関東−赤石の「ハ」の字構造)が広く支配的であると指摘しています。これはいまからみれば、新第三紀の日本海拡大時の、西南日本の時計まわり回転による南下と、伊豆−小笠原弧との衝突、および関東−赤石の地質の屈曲構造であり、それをすでに指摘しているのは驚くべきことです。

『日本群島の構造と起源について』には、「中央構造線」の語はまだ出てでてきませんが、西南日本を「内帯」「中帯」「外帯」に分けています。
「内帯」は、北九州から鈴鹿山地北部の御在所山にいたる山陰・山陽花崗岩の分布地域と、日本海岸の火山地域です。
「中帯」は中部九州から瀬戸内海にいたる地域で、ナウマンはここに大きな割れ目が生じて瀬戸内海が沈降するとともに、マグマが上昇して花崗岩や火山岩ができたと考えたようです。いまからみれば白亜紀の領家花崗岩と新第三紀の瀬戸内火山岩と現在の阿蘇山などの火山を一連の活動の結果とみなしたり、第四紀の気候変動による氷河期の瀬戸内海の陸化と間氷期の水没を、瀬戸内海の沈降とみなしてしまったことなどの誤りがあります。
「外帯」については、秩父帯と三波川帯の境界などもよく記されています。九州と四国の連続性や、四国と紀伊半島の連続性についても記されています。ただし志摩半島と三河地方の連続性については、伊勢湾口に大きなくいちがいがあるように書かれています。これは地質図に描かれているように、幡豆の領家変成岩を結晶片岩と誤ったためだと思います。しかしながら、赤石山脈地域に外帯が連続していることと、志摩と赤石山脈の間で、外帯の走向が西南西から南北に変わることを指摘しています。なお内帯と中帯も、琵琶湖地域から東方へ、同じように曲がっていくことも述べています。

ナウマンは、『日本群島の構造と起源について』では、「(外帯の北縁をなす)結晶片岩は、内側の火成岩に対して一つの障壁をなしている。また中帯と外帯との分離は、中帯と内帯との分離に比べると、はるかに鋭くかつ深部に及んでいるものである」(訳書p204)と強調しています。また赤石山脈地域の記述では「結晶片岩の内側の片麻岩との境界線は、ここでも火成岩地域の始まりを表している」と記しています。

1887年までに書かれた『日本群島の地質構造区分』の図では、「内帯」と「中帯」の区別を廃して、両者をあわせて「内帯」と呼ぶように改められ、内帯と外帯の境界線に「大中央裂線(GrosseMediansplate)」の名が付けられています。フォッサマグナの呼称も示されています。


ナウマンの調査ルート(部分)。山下昇訳『ナウマン論文集』掲載図の一部。

諏訪湖から天竜川に沿って調査したことが分かります。1885年の『日本群島の構造と起源について』には、天竜下りの様子が記されています。

ナウマンは諏訪湖を頂点として天竜川と富士川の間の三角形の山岳地帯を「赤石スフェノイド(楔状地)」と呼んでいます。

しかし、それに続けて、次のように記しています。
「正確な地図の上で上ノ諏訪から天竜川の川口へ1本の直線を引くと、この線の上に多数の小さい流路が乗り、その水は全体として天竜川に注いでいる。天竜川の上流部は、東から流れてくる二つの渓谷(三峰川と小渋川)から、赤石スフェノイド(楔状地)の水を受け入れている。それぞれの渓谷は、合流点からおよそ10kmのところ(高遠と大鹿)で、直角に合流する二つの支流の水を受け入れている。したがって、いずれの場合にも、谷の流路の形はT字形になっている。その支流の谷こそ、ほとんど全く正確に上述の線に一致している。それは、地質調査所が作成した地図を大観すれば分かるように、上述の二つの地点、すなわち上ノ諏訪と天竜川河口とを両端とする120km以上もの、連続的で際立って直線的な谷をなしている。この渓谷は、北部においては片麻岩と結晶片岩との境界を示していて、いずれにせよ、断裂によって生じたものである。」

この記述は、茅野から天竜河口にいたる、水窪(みさくぼ)以北の中央構造線と水窪以南の赤石構造線を結んだまっすぐな谷と、中央構造線区間の地質境界としての性質をみごとに正確に表しています。しかしナウマンの調査ルートは伊那谷を通っていますから、これは調査チームの誰かが調べたのかもしれません。

ナウマンは、天竜川上流の東に「始源片麻岩」が見られることや、「結晶片岩の内側の片麻岩との境界線は、ここでも火成岩地域の始まりを表している」と記しています。けれども一方では、「赤石スフェノイド」の西縁を天竜川とし、「赤石スフェノイドは外帯を表し」(訳書p207)と述べています。伊那谷と「上ノ諏訪から天竜川の川口」への谷の区別が、多少混乱しているところもあるように思います。

しかし、次の図や『日本群島の地質構造区分』の図では、「大中央裂線」の位置は茅野から少なくとも大鹿まで、おそらく遠山川までは正確に、伊那山地と赤石山脈の間に引かれているように見えます。ナウマンが天竜峡の花崗岩を見落とすとも思えません。幡豆の変成岩を結晶片岩と誤ったことを考えると、平岡から南の天竜川沿いに露出する変成岩も結晶片岩と見誤ったのかもしれません。いったん天竜川沿いに南下してから幡豆の北方へつないでいるように見えます。


ナウマンの中央構造線とフォッサマグナ(部分)。山下昇訳『ナウマン論文集』掲載図に加筆。赤線:ナウマンの中央構造線。黄領域:ナウマンのフォッサマグナ地域

ナウマンは、ドイツに帰ってからも、日本列島の調査をまとめた論文を書いています。1885年の発表では「中央構造線」と「フォッサマグナ」の呼称は、まだ用いていませんが、1887年の講演では、「中央構造線」と「フォッサマグナ」が初登場しています。

上の図は、訳本p258に掲載されている図に着色したものです。1885〜1887年に書かれた『日本群島の地質構造区分』の図と、中央構造線やフォッサマグナの位置はまったく同じです。赤線でなぞった線は、『日本群島の地質構造区分』では、「大中央裂線」と命名されている線です。

いまの知見でみると、四国と紀伊半島では、その位置は正確です。しかし三河地方から南信地域にかけては、幡豆と伊那谷南部の領家変成岩を結晶片岩にしてしまったために、伊勢湾口で北へ食いちがってしまいました。ナウマンはこのくいちがいの存在について述べていますが、くいちがいそのものが存在していなかったわけです。また、阿武隈川へ伸ばしているのは、筑波変成岩を結晶片岩とみなしたからでしょう。その先を早池峰の超塩基性岩類の西の北上川へ続けています。これもいまの知見では、北上山地が西南日本外帯とそのまま連続しているとは考えられていません。

しかし細部は別にして、西南日本については、ナウマンの地質図と合わせてみればよく分かるように、三波川変成帯の結晶片岩と、領家変成帯の片麻岩や花崗岩との境界として、ナウマンが「大中央裂線」(中央構造線)を引いたことがよく分かります。


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